ここ最近はブログの更新も滞りがち。月1回のペースに落ちている。
筆が進まないというか、携帯のキーを押す気にならない。
生きているからいろんなこともあるし、感じることもあるが、悲しい話が多すぎる。
笑える話もあるが、次の瞬間に笑顔も消えてしまう。
通り魔殺人の犯人は法廷で人を殺すのは蚊を殺すのと同じこと、ライオンがシマウマを食べるのに理由がいるのかと反論した。
西淀川の少女の虐待死は、躾にかこつけて、何の罪もない幼い命を奪った。
つい先日にも、大阪でふられた逆恨みで男子高校生がバットで撲殺された。殺された少年は、頭蓋骨が何か所も陥没骨折しており、バットが折れるほど何度も強い力で僕打したらしい。
そういう犯罪は、極一部だというのは理解しているが、耳にすると何ともやりきれない気分になる。
通り魔殺人犯の男は、死刑になりたいから人を殺したという。自ら命を絶つのは恐ろしいから死刑になりたかったから、面白いゲームがなくなったから犯行の時期がきたとも言っている。
身勝手な理由で殺された人は浮かばれないのはもちろんだが、残されたご遺族の気持ちは察することも出来ない怒りや無念さがあるだろう。
殺人犯は、多分望みどおり極刑に処されるはずだ。犯罪を犯した人間の望みが叶い、罪なき被害者は将来を絶たれ、ご遺族は大きな悲しみをこの後も背負っていかなければならない。
死 刑の是非が論じられるが、私は基本的に存続すべきだと思っている。人の命を奪った罪は、命でしか償えないからだ。だから、1人殺しただけでは死刑になりに くいというのも理解し難いし、自首すれば極刑を免れるというのも納得出来ない。実際に闇サイト殺人事件では、死刑になりたくないからという理由で自首した 犯人は死刑を免れる判決が言い渡された。
目には目を、歯には歯をが望ましいとは言わないが、鬼畜の犯罪には、同じ苦しみを味あわせたいと思うのが人情だと思う。
通り魔殺人犯には、死刑が如何に苦しく楽に死ねるものではないことを理解させ、恐怖に怯えながら刑に処されることを願う。
人の死を願うとは、何ともやりきれないが、こういう犯罪が皆無になることはないだろうから、また同じ様な犯罪が起これば、やはり同じ様に思うはずだ。
裁判員制度がいよいよスタートしたが、この制度では有罪・無罪の判断だけでなく、量刑についても裁判員が関わることになる。
難しい事件もあり、何もかも上手く運ばないとは思うが、陰惨で残虐・残酷な事件には、一般的な国民感情を反映し、被害者や遺族の気持ちを思う正当な判決が増えることを期待する。
少なくとも、1人だから、自首したから、反省しているからという数や事後に重きを置いた判決はなくなってほしいものだ。
冤罪の問題も危惧されるが、プロの判事との組み合わせで、冷静に正当な判決がくだされると期待する。
とにかく、気の滅入る悲しい事件はなくなってほしいものだ。
2009年6月21日日曜日
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